ミツオ日記

自称詩人 熊野ミツオの日々

何事もほどほどに

 ひとはなんにでも飽きるものだ、というものの見方がある。たとえば、ぼくは、自分にパートナーができないことで悩んでいた。ひとりで生きていくには人生は長すぎる、とおもっていたのだ。寂しくひとりで老いて、ひとりで死ぬ、ということに絶望していた。そういう状態が三年間くらい続いた気がする。そして、最近はその悩みに飽きた。ひとはなんにでも飽きるし、慣れてしまうものなのだ。

 いや、しかし、そのものの見方はあまりにもクールぶっている、とも言える。悟りすましている、と言えるだろう。ほんとうのところを言うと、ぼくは悩んでいるうちに、いろいろと自分が納得できるような材料を集めて、それを考えて、ようやく腑に落ちるところまで持って行ったのだとも言える。悩むのに飽きたというか、悩み疲れたというか、一応のところまで自分のなかで解決したと言えるのかもしれない。

 飽きた、というのももちろんある。そういう角度から見ることもできる。でも、やはり、その反対側には、一生懸命考えて納得いくところまで持っていった自分、というのもあるのだなあって気がする。つまり、五十パーセントはただ飽きただけかもしれないけれど、残りの五十パーセントを埋めたのは、一生懸命悩んだからだ、と言えるのではないだろうか。

 だから、悩んでいるひとにたいして、何かアドバイスをするときに「そのうち飽きるよ」と言うのもいいかもしれないけれど、「もっと悩んで、納得できるまで考えたまえ」というのもいいだろう。最近、気がついたのは、物事にはいろんな面があるので、ある一側面だけからそれを捉えることはできないということだった。これは数少ないこの世界の真理の一つだろう。

なんだか、三十代になった辺りから、こんな風にしてぼくは、妙に理屈っぽくなってきてしまった。

 

 ぼくが自分にパートナーができないことをどのようにあきらめたか、という話をしたい。

 一般的にはあきらめるというとネガティブな印象のある言葉だ。熱血漢、たとえば岡本太郎のようなひとに、「アキラメルナ!」と叱られるかもしれない。でも、これはよく言われる話だけれど、あきらめるというのはもともと仏教の言葉で、「明らめる」と書き、「物事を明らかに見極める」くらいの意味があって、由来は意外にポジティブなのだ。まあ、これくらいの話はみんな知っている。

 しかし、そう言うと、ぼくが仏教的にあきらめることを解釈して、ある種の悟りから、パートナーをつくることをあきらめた、みたいに聞こえるかもしれない。そう言うと、なんだかクールぶっているというか、悟りすましている、みたいな印象をひとに持たれるかもしれない。たしかにそういう面もあるだろう。でも、やってみるとわかるけれど、自分の欲しいものをきっぱりとあきらめるのは実際のところ難しい。あきらめたと口では言いつつ、実は未練たらたらということはよくある。ぼくもそうなのだ。

 さっきの話ではないけれど、ぼくの場合で言うと、五十パーセントはあきらめているかもしれないけれど、まだ残り五十パーセントくらいは未練がある。そして、それでいいのだという気がしている。なぜなら、ぼくがパートナーをつくることを完ぺきにあきらめてしまった場合、何かのきっかけで偶然チャンスが巡ってきたときにも行動を起こさないだろうからだ。せっかく女の子から好意を持たれているのに、ぼくのあきらめがあまりにも深すぎてそれに対応できない、ということがあり得る。そう考えると、あきらめると言っても、百パーセント完全にあきらめるなんてことはなかなかできないだけではなく、よくないことなのだとも言える。熱血漢、たとえば岡本太郎のようなひとの言うこともやはり一理あるのだ。

 物事はほどほどがいい。これは、難しい言葉でいうと中庸の教えと言って、昔からある考えで、たぶん、孔子とかが言ったんだとおもうけれど、数少ないこの世界の真理だと言えるだろう。ぼくのように発達障害があると、ついつい白黒思考に陥り勝ちなので、何かことがあるごとに「中庸、中庸、ちゅうよう、ちゅうよう、ちゅ~よ~う」と唱えたい。これはぼくの勘ではそれくらい大事な教えだ。

 

 少し話が逸れてしまったんだけれど、次にぼくが自分にパートナーができないことをどうやってあきらめたのか(あきらめたと言っても五十パーセントくらいだけれど)を書こう。なんだか、だんだん文章を書くのに飽きてきたので手短にいきたい。この文章が、ぼくと同じようにパートナーがいなくて寂しいおもいをしているひとに読んでもらえて、少しは参考になればうれしい。

 ……ただたんにぼくは平凡な幸せに憧れていただけだったのだろう。

急に、この文章を続けるのが嫌になった。それにはいくつかの理由があるけれど、何よりも大きいのが、自分にパートナーができない理由、自分がモテない理由を長々と書くのが憂うつだからだって気がする。それに、モテない理由なんて個別のものなので、ぼくが自分のケースについていちいち書いても誰かの参考になったりはしない。

 ぼくはずっとモテない人生を生きてきたのでわかるんだけれど、モテない理由というのは、それはそのひとがそのひとだからモテない、というくらいどうしようもないことだ。生まれつきの遺伝子で決まってるんじゃないかとおもう。モテるかモテないかは生まれつきの遺伝子で決まっている。そういう言い方もいいだろう。ぼくは孤独の星の下に生まれたのだとおもってあきらめることにした。

 もう飽きたし、読んでくれているひとも飽きたとおもうので、この文章はここで終わりです。アルバイトに行く時間です。それでは、また。