ミツオ日記

自称詩人 熊野ミツオの日々

自分の話を好きなだけ自由にできる場所

 最近、オフ会ばかりしている。秋になって涼しくなってきたからだとおもう。ぼくはブログにオフ会の様子を書くことが多い。でも、それはやめようとおもった。あんまりひとのことを書いてはいけない、という気がしてきた。それにフォロワーはここを見ている。勝手なことを書かれて内心怒っているひともいるかもしれない。だから、もうやめよう。これからは主に自分のことを書こうとおもう。

 きょうは休日だ。朝、起きて、きのうの晩ごはんの余りのみそ汁と、解凍したごはん、野菜のオムレツをつくって食べた。野菜のオムレツにはハム二枚、キャベツ少し、玉ねぎ四分の一個、ちくわ一本を入れた。休日の優雅な朝ごはん、というやつなのかもしれない。食べ終わった後はコーヒーをいれて、それを飲みながらツイッターを見ていた。

 YouTubeでカネコアヤノの『タオルケットは穏やかな』を聴いた。何回か同じ曲を繰り返し聴いた。この曲はMVの映像もいい。フィルムで撮ったような質感の何気ない風景の写真が次々と切り替わっていく。途中でロリータ服を着たカネコアヤノが、強いまなざしで振り返るのもいい。
 ぼくは歌詞があまり聴きとれない方なので、『タオルケットは穏やかな』の歌詞もぜんぶはわからない。もしかすると意図的に聴き取りにくいように歌っているのかもしれない。MVの写真の切り替わりをぜんぶ見られないように、歌詞もぜんぶは聴きとれない。いろんなイメージの欠片のなかから、サビが前景に浮かび上がるような、そういうかんじなのかもしれない、と聴いていておもう。
 『タオルケットは穏やかな』はいままでのカネコアヤノとは違っている。それを否定的にかんじることもあったけれど、結局、この曲を自分は繰り返し聴いている。カネコアヤノも変わっていくし、ぼくもそれに合わせて変わるのだろうか。
 カネコアヤノを聴いているとけっこう気持ちが盛り上がってしまって、カネコアヤノにたいする大きな感情が動くのをかんじる。それがなんだか面倒くさくて、カネコアヤノを聴かない時期が続いていた。だから、今朝は久しぶりにカネコアヤノを聴いた。

 いまは、洗濯機を回していたが、それが止まった。ほんとうは外を散歩したい、という気持ちだったけれど、洗濯機が止まるまで外には出られない。仕方がないので本を読もうかとおもったけれど、集中できなかった。ツイッターはもうじゅうぶんやったという気がしたので、しばらく見ないと決めた。何もすることがなくなった。何もすることがなくなったけれど、何もせずにぼんやりしていられるほど安定した気持ちでもなかったので、こうして文章を書くことにした。
 洗濯機が止まったので、とりあえずいまからそれを干そうとおもう。

 洗濯ものを干した。きょうは晴れてはいるけれど、薄く曇っている。空は曖昧な色をしていて、太陽の光は拡散されている。そして、暖かい……というよりかは暑い。もう十一月なのに、こんな風に暑いのは嫌だ。ぼくは涼しい方が好きだ。

 いまは、東浩紀の『訂正する力』という本を読みはじめた。訂正する力というのは変わっていく力、だろうか? 簡単なようでなかなかつかめない。訂正する力は、老いていく力でもある。ここには何かいまの自分にとって大切なことが書かれているような気がする。
 ぼくは東浩紀がなんとなく好きだ。ツイッターをフォローして、ツイートを読んでいるうちに好きになってきた。いろんな知識人がいるけれど、東浩紀は好きな方だ。後は千葉雅也も好きだ。他のひとのことはよく知らないな。
 小説も読んでいる。いまは多和田葉子の『百年の散歩』を読みはじめた。

 最近は、自分とはどういう人間なのか? ということに興味が出てきている。まとめるとそういうかんじだ。

 小説を書こうとおもった。でも、なかなか小説を書きはじめることができない。ぼくはほんとうは小説を書きたくないのだろうか。

 最近は短歌もなかなかできない。なんとなく定型にカチッとハマるときと、いくらやってみても定型からはみ出てしまう時期がある。いまは、定型からはみ出てしまう時期だ。

 文章は未来の自分に向けて書くといいんだけれど、そのとき大事なのは未来の自分はまったくの他人だとおもって、一から説明するつもりで書くのがいい、とたしかphaさんが本に書いていた。
 文章に書くことなんて何もないような気がするかもしれない。でも、そういう風に知らないひとに一から説明するつもりで書くと、意外に書くことがはっきりしてくるのかもしれない、ともおもう。

 ぼくは十代の頃、インターネットをはじめて、それから、ブログをはじめた。その当時、インターネットで知り合った年上のおねえさんに依存的になっていたんだけれど、そのひとに話を聞いてもらえないようになってきてから、自分の話を自由に好きなだけできる場所をつくろうとおもってブログをはじめたのだった。ブログを書くことは十代の自分にとってはかなりたのしいことだった。もともと、その頃のぼくは寂しくて何かに依存したいとおもっていたから、ブログをつくって、それに依存した。
 あの頃はまだSNSがなかったので、そういう風な、ブログにハマっているぼくのようなヤングは多かっただろう。ぼくたちはよくも悪くもインターネットの世代だと言える。