ミツオ日記

自称詩人 熊野ミツオの日々

ほんとうにやりたいこと

 疲れている。誰にも会いたくないし何もしたくない。
 最近は自分の眠りが昼間関わった人間に左右されることがわかってきた。なんとなく寝苦しくて目が覚めて、自分がなぜ目を覚ましたのかと考えると、昼間会ったひとの何気ないひとことが気になって目が覚めたのだとわかる。この前はうなされていた。起きているときだったらどうでもいいとおもえるような小さなことでうなされて目を覚まして、眠気に引きずり込まれるようにまた眠ってうなされて、しばらく経つと目が覚めた。それを繰り返した。そういうのは苦しいことだ。
 ぼくは意外にどうでもいいことを気にしているのかもしれない。考えてみれば、子どもの頃のぼくは傷つきやすいところがあって、きついことを言われるとすぐ傷ついた。そういう自分のことを長い間忘れていた。

 休日になると、もう何もしたくないとおもってどこにも行かずに家にいることが増えた。
 いつまでもパジャマを着たまま布団でゴロゴロしている。ほぼ一日じゅう、本を読んでいる。考えてみれば、ぼくの父が休日はそんなかんじだった。ぼくも中年になって、親に似てきたのかもしれない。
 少し前のぼくはどちらかというと日常に刺激を求めていた。いまは、なるべく刺激を受けたくないとおもっている。昼はずっと家にいて本を読んだり、文章を書いたり、音楽を聴いたりしながら過ごし、夕方になって涼しくなってきたら散歩に出かける。それが最近の休日だ。

 八月はわりとがんばった。ぼくは一カ月に一回は有給をとりたいくらいの気持ちでいるけれど、八月は有給をとらずに耐えた。だから九月の九日の土曜日に有給をとって四連休をつくることにした。連休をとって特に何かするわけではない。誰にも会わないし、何もしない。もしかすると餃子をつくるかもしれない。でも、いまのところは餃子をつくる以外に予定はない。
 ぼくには一年に一回か二回くらい餃子を四十個くらいつくって冷凍しておいて、少しずつ食べるというたのしみがある。この前つくったときには半分くらい実家の家族にあげた。みんなおいしいと言って食べていたとお母さんは言っていた。今回の四連休で餃子が四十個できたらまた半分くらいはあげてもいい。でも、それには母に家まで取りに来てもらいたいとおもう。
 お母さんは一カ月に一度くらいのペースでぼくの家まで来て、おかずを置いて行ってくれる。でも、最近は来ない。理由は暑いからだそうだ。その気持ちはわかるけれど、餃子をつくったときくらい取りに来てほしいという気はする。まあ、でも取りに来なくてもいい。その場合は四十個ぜんぶを独り占めにするだけだ。

 毎日、真面目に働いている。朝の八時か九時くらいに起きて、一時間くらいかけて通勤して、十二時から働き、十八時に仕事を終える。そしてまた一時間かけて帰る。寝るのは二十四時くらいだ。週に四日、働いている。
 この生活は普通の勤め人に比べると余裕のある方だとおもう。でも、毎日がつまらないとおもう。
 この前、バイトの休憩時間に、休憩スペースで秘密のノートを書いていたとき、同人誌をやろうかという気分になった。中年になって同人誌をやる。それはバンドをやるようなものだ。失った青春を取り戻すために同人誌をやる。オンラインでぜんぶが済むような味気ないものではなく、喫茶店などで実際に会って、文学について語り合ったりする。文学以外にも別にどうでもいいような話をしてもいい。そういう時間から友情が生まれる。もしかしたら恋の花も咲くかもしれない。完成した同人誌は文学フリマで売る。いかれたメンバー全員でブースを設置して、接客もする。終わった後は打ち上げに夜の街へ繰り出してもいい。
 こんな想像をしてしまうのは日々がつまらないからだ。生きがいがないからだ、という気がした。それにしてもこんな歳になっても、こんな浮ついたことを考えていていいのだろうか、という気もする。いや、別にいいだろう。ぼくはひとり身で、養うべき家族もいないのだからね。いくつになっても青春なんだ。
 いや、実際に同人誌をやるかどうかはまだわからない。たのしそうだな、やろうぜ、とおもったひともいるかもしれない。そういうひとには自分が部長になってもらいたい。ぼくはまだ煮え切らない気持ちでいる。
 とにかく、毎日がつまらな過ぎて、仕事を辞めたくなってくる。でも、これはたぶん、ダメな方向だ。毎日がつまらないのなら何かたのしいことをはじめればいい。せっかく普通の社会人よりも余裕のある生活をしているのだから、そういう方向でいくのがいい。

 最近は、詩が四回連続でココア共和国の傑作選に選ばれた。でも、ぼくは自分では調子がよくない気がしている。なんか、もう、ぜんぶがダメな気がしている。

 そういえば、今朝、ユーチューブを見ていたら、哲学を簡単に解説するチャンネルがあった。老子の思想を解説する、ということだったので興味が湧いて見てみた。
 それによるとひとは無欲になることが大切なのだった。無欲というのは、老子的に言うと、自分の外側から与えられた欲ではなく、自分のなかから沸いてきた真の欲に従うことだった。たとえば、流行っている映画があったとして、ほんとうはあんまり見たくないのに、SNSやなんかでみんなが見ているから自分も見る、というような行動は外側から与えられた欲に振り回されていることになる。ほんとうにその映画に興味があって見たいのか、一度自分自身に問いかけてみるのがいい。真の自分自身の欲望に従い、無欲になったときに人生はうまくいくようになる。それが老子の考え方だった。
 なんだか最近、これと同じような話をあちこちでよく聞くような気がする。自分のほんとうにやりたいことを、自分に聞いてみることだ。それがいまの自分には大事なことだから、同じような話をいろんなところで聞くのかもしれない。自分がほんとうは何がやりたいのか、いま一度、立ち止まって考えてみたい。