ミツオ日記

自称詩人 熊野ミツオの日々

ゴッホの素描

 きょうはゴッホ展に行く日だった。一週間前から作業所の有給をとって気合いが入っていた。きのうは勤労感謝の日で祝日だった。祝日の次の日はすいているだろうし、二日連続で休日にしてゆっくりしよう、という考えだった。

 勤労感謝の日には林檎ジャムとホワイトシチューをつくった。いちにちじゅう料理をしていたようで疲れた。でも、ホワイトシチューをつくったので、これで次の日の晩ごはんを心配する必要はなくなった。

 

 ゴッホ展の日の朝、ぼくはけっこう早く起きた。気合いが入っていたのだ。でも、はっきり言って、そんなに早起きしても意味はなかった。昼ごはんは家で食べようとおもっていたのだ。なぜかと言うと、その方が節約になるからだ。

 だから、昼まで何もすることがなかった。ぼくは布団に寝そべって尻をかいたり、あくびをしたり、漫画を読んだりしていた。でも、時間はなかなか過ぎなかった。こうなると、ついつい何か意味のあることがしたくなった。

 iPhoneの写真の整理をすることにした。iPhoneの写真を見返すとぼくはこのiPhoneを二〇一八年からつかっていることがわかった。その頃の自撮りが出てきた。その頃のぼくはいまより痩せていて、楕円形の角ばったメガネをかけていた。こうやって見ると、この三年で顔立ちが変わった気がする。メガネを丸メガネに変えた、というのもあるかもしれないが、それにしても変わった。

 二〇一八年の写真を見ていてわかったのは、その頃は肉じゃがばかりつくって食べていたということ、詩の冊子をつくって配ったりしていたこと、ベランダでバジルを育てていたことなどだった。その頃のぼくにはふたり友だちがいたんだけれど、いまはいない。いまはその代わりに新しい友だちがいる。

 写真は二〇一九年の大晦日まで見て、いらない写真は捨てた。ほんとうは二〇二〇年のぶんまで整理しようとおもっていたけれど、肩が凝って疲れてしまったのだ。

 時計を見ると十一時半だった。予定では家で昼ごはんを食べてから行くつもりだったのに、急に嫌になった。パスタを茹でて、レトルトをかけて食べるのが嫌になったのだ。たぶん、ぼくはiPhoneの写真の整理をしたせいで精神的に疲労したのだとおもう。

 

 お昼ごはんはどこかで適当にすませることにして準備をして家を出た。外に出てからマスクを着けていないことに気がついたので、家に戻ってマスクを着けてから、もういちど家を出た。

 家の駅の近くの松屋でごはんを食べようか迷った。松屋のなかを覗いたら混んでいたのであきらめて駅に入って電車に乗った。きょうは平日のはずなのに、人々がみんな遊びに行くみたいに見えて休日みたいだった。腰がすこし痛んだ。

 ぼくは都心に出るのは久しぶりだった。上野駅で降りて、まずはごはんを食べられる場所を探した。吉野家があったので入った。ぼくは豚丼のAセットを頼んだ。Aセットとは、生野菜とみそ汁のことだ。食べ終わったので外に出た。美術館のある方面にヨチヨチと歩いた。上野はひとが多かった。休日はもっと多いのだろう。道端で曲芸をやっているひとたちがいた。

 美術館に着いた。入口に大きな銀色の玉のオブジェが置いてある。その横を通り過ぎてなかに入った。薄暗い。美術館はなぜ薄暗いのだろう。薄暗いと眼が悪い人間にとっては不利なのだ。受付のひとに障害者手帳を見せると、列に並ばずになかに入れた。なんだかすこし申し訳ないという気がした。一般の大人は入場するのに二千円かかるけれど、障害者手帳を持っているとタダなのだった。

 おもったより混んでいた。実は絵なんかには興味がないんだけれど、学校の授業で仕方がなく来ている、という雰囲気を出している中学生の一団がいて、彼らがうるさくて気に障った。でも、しばらくすると離れることができたので絵に集中することができた。

 

 今回のゴッホ展はヘレーネというひとのコレクションが展示されているらしい。ヘレーネはゴッホ最大のコレクターなのだそうだ。絵画のコレクションなんてどうせかんじの悪い成金がやるものなのだとおもっていたけれど、そうではない。入口付近にあったヘレーネの肖像画を見る限りでは真面目そうで、内向的と言ってもいいようなかんじの女性だった。ヘレーネは心からゴッホが好きで、だからコレクターをしていたのだとおもう。

 実は、ぼくは、二年くらい前に上野に来たゴッホ展にも来た。その頃は、ぼくはいまよりメガネの度が合っていなかった。だから、解説を読むことができなかった。でも、今回は違う。メガネはよく合っていた。だから、絵がよく見えるし、解説の細かい字も読むことができた。それで、今回は真面目に解説に眼を通した。その結果、いろんなことがわかった。ゴッホの絵の横にある解説を読み、絵を見て、そして解説を読むことでゴッホのたどった人生が浮かび上がってくる。

 ぼくが今回とくに惹きつけられたのは、ゴッホの修業時代の素描だった。ゴッホは画家になることを決意してから、しばらくは絵の基本を身に着けるために素描をやっていたらしい。絵のモデルになっているのは養老院の老人たちや、農夫などの貧しいひとたちだった。ゴッホは都会より田舎の景色を好んで描いた。ゴッホは自然が好きだった。また、そこで生きるひとたちにも深い共感と愛情を持っていた。ゴッホは若くてきれいなひとよりも、年を取ったひと、顔に皺が多く、苦労してきたのがわかるようなひとを好んで描いた。その素描からかんじられるゴッホの心の温かさ、純粋さにぼくは感動した。

 絵は白黒の素描からはじまり、暗い油彩、カラフルで明るい絵へと移っていった。ぼくがとくに好きな絵は、花盛りの精神病院の庭を描いた絵だった。その絵は以前のゴッホ展でも見ていて、そのときもすごくいいなとおもった。ぼくは、自分が精神病院の中庭のデイケアに通っていたことがあるので、それを見るとゴッホにたいする共感が湧いてくるのだった。ゴッホ展を見終わって美術館の外に出ると夕方になっていた。空気が冷えてきている。ぼくは喫茶店にでも入って休憩しようかな、とおもった。上野の街を歩いていると、上野の思い出がよみがえってくる。上野に来るときはだいたい美術館が目的だ。いっしょに来た女の子のことや、友だちのことをおもいだした。こうしてひとは中年になると街に思い出が増えていくんだな、という気がした。

 以前のゴッホ展では今回よりも深く感動したことをおもいだした。あのときは『糸杉』を見たんだった。メガネの度は合っていなかったけれど、絵の前に立ったときの感動が忘れられない。今回は『糸杉』はなかった。その代わり、『黄色い家』や『夜のプロヴァンスの田舎道』など、前回はなかった絵を見ることができてよかった。